プロフィール
ホーム  クレヨン社  アルバム  加藤秀樹  柳沼由紀枝  
 クレスポ  プロフィール  ネット  ギャラリー  みんなの声  メール  Q&A  リンク
 
少年時代


ひょっこりひょうたん島

いつも、「大人になったら何になりたい?」と聞かれて、「ダンプカーの運転手!」としか答えてなかった僕が、テレビでバイオリンを弾いてる人を指差し、いきなり「あれになりたい!」と言ったそうだ。幼稚園のころの話である。

音楽好きの親父は喜んで、頼みもしないのに翌日8分の1のバイオリンを買ってきてしまった。そしてあれよあれよという間に近所のバイオリンの先生のところへ通わされてしまったのだった。
その先生は結構なおじいちゃんで、弾くフォームにとても厳しかった。
しかも、僕はある程度たつと耳で憶えた「鉄人28号」や「エイトマン」が弾けるようになっていたのに、いつまでたっても「キラキラ星」しか教えてくれないのである。

そんなある日レッスンに行ったら、先生は不在でテレビがついており、NHKの「ひょっこりひょうたん島」が始まった。僕は何気なくテーマ曲に合わせて「ひょっこりひょうたん島」を弾いていると、先生がやってきた。「コラ!そんなもの弾くとバカになる、やめろ!」僕は思いっきり怒鳴られた。

ますます僕はバイオリンが嫌いになった。それからあれこれとバイオリンをやめる方法を考えたが、あるとき何かのはずみで「バイオリンは嫌だけど、ピアノならいい」と言ってしまった。すると両親は僕のために、本当にピアノを買ってしまったのである。

こうして僕は首尾よくバイオリンはやめられたものの、高価なピアノはおいそれとやめられるはずもないのは子供心にもよくわかった。
しかたなしにピアノの練習は続けたが、ピアノの練習はバイオリンに負けず劣らず実につまらなかった。だいたい教則本が間抜けだった。曲がつまらないのである。
たまに発表会で弾ける名曲ぞろいのピアノピースは唯一の楽しみだったが、ふだん練習しなきゃならないツェルニーとかハノンとかいう、子供いじめが好きな変態作曲家はいつもぶんなぐってやりたい気持だった。

トルコ行進曲

曲がつまらないので相変わらず練習は嫌いだったのだが、その反動だろうか、いい音楽を聞くのは好きだった。それもクラシックが大好きな子供だった。

最初に感動なるものを憶えたのはベートーベンの「トルコ行進曲」である。
子供向けレコードに入ってるその曲を、レコードがダメになるまで、毎日果てしなく繰り返し聞き続けた。

そのレコードは曲の始まる前に、岸田今日子のようなおばさんの低い声で解説が付いていた。
「トルコの兵隊さんたちが、遠くから、だんだん、だんだん、近づいて、そして、目の前を通り過ぎ、だんだん、だんだん、遠くへ行く曲です」
僕はこのおばさんの「だんだん、だんだん」という言葉を聞くたび怪しい興奮に包まれ、もうすでに胸が高鳴るのだった。

そして曲が始まる。トルコの兵隊さんたちが「チャーラッチャッチャッ、チャーラッチャッチャッ」と近づいて来るのである。僕はおばさんの言葉どおり「だんだん、だんだん」興奮してくる。やがて「チャンチャカチャーカ!チャンチャカチャー!」とマイナー調のフォルテシモで目の前をに迫って来るときは、必ず全身で興奮していた。さらに、転調して、テーマに戻る直前の「チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!」とたたみかけながら、リットするところでは、(今の感覚に例えるなら)今にもイキそうな感覚に陥いった。さらに「チャーラッチャッチャッ!チャーラッチャッチャッ!」とアテンポしてテーマに戻った瞬間、「イッた〜!」と全身で喜びを噛みしめた(チビッてしまったこともある)ものである。
そして徐々に遠ざかる兵隊さんたちと一緒に僕の興奮もクールダウンするのだった。
そしてそれを何度も何度も繰り返し聞いたのである。

星条旗よ永遠なれ

しかしそのころ、僕はこの興奮しやすい鑑賞癖が怪しい秘め事のように思えてとても恥ずかしかったのである。僕は常にこの悪癖を悟られまいと注意するのに苦労した。

でも、僕の通ってた小学校では、よく校内放送でクラシックを流すのである。
掃除の時間に流れる、ビゼーの「アルルの女」のフルートを聞くと訳もなく泣きそうになるのをごまかすのが大変だったし、昼休みに流れるメンデルスゾーンの「春の歌」は体がひとりでふにゃふにゃ動いてしまって困った。

中でも一番困ったのは不意打ちである。小学校2年の運動会の行進の練習の出来事だった。いきなり、はじめて耳にするマーチが大音量で校庭に流れた。
「ちゃーんちゃーら、ちゃっちゃーちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ!」スーザの「星条旗よ永遠なれ」である。
僕はこの三三七拍子のようなイントロだけで不覚にもイキそうになった。
しかもその後に続く、Aメロがイントロをしのぐ大迫力で襲いかかり、「もうダメだ〜!」と思った瞬間、ブラスの低音の合の手が入る。これが憎らしいほどカッコいい。とたんに僕はあっけなくイッてしまった。「わかったもうやめてくれ〜!」と心で叫ぶにもかかわらず、サディスティックなスーザは攻撃の手を緩めない。これでもかと威風堂々としたBメロが僕にとどめを刺した。
僕はとうとう行進しながら声をあげて泣き出した。周りのみんなが心配し、僕は先生に保健室に連れて行かれた。

交響曲第5番

こんなふうに幼くして性的興奮にも似た音楽鑑賞癖を持つ子供だった僕が、ますますクラシックにはまり込んだのは言うまでもない。

そして小学校3年のとき始めて自分でレコードを買った。ベートーベンの5番である。これを聞いたときの衝撃はトルコもアメリカも何するものぞであった。有名な1楽章をもくろんで買ってみたのだが(1楽章も和風でコシがありそれなりにすごいが)それに続く2楽章で僕は気を失いそうになるくらいイッてしまったのである。

1楽章の劇的な幕切れの後に奏でられる2楽章のテーマは、天使が降りてきそうなくらい美しい旋律で始まる。
そのテーマを徐々に徐々に展開しながら、あくまでも優しく静かに2楽章は盛り上がってくる。僕も徐々に徐々に興奮しながら、あくまでも優しく静かにイキそうになり、ついにはいつイッてもおかしくないくらいパンパンに興奮してくる。
その絶妙なころあいを見はからったように、2楽章は一気に炸裂する「ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!」ただひたむきに力強く、そしてひたすらひたむきに力強く、高音部のストリングスが8分音符の和音を刻み続けるのだ。そして低音部のストリングスは攻守入れ替わり2楽章のテーマを16分音符で暴力的にまで弾きまくるのである。
そしてこの瞬間、死を覚悟した雄鮭の射精のように、僕は大きく口を開けて思いっきり果てるのだった。
ベートーベンは僕が果てた後のフォローも忘れない。再び優しく美しいテーマで僕を包み込み、激しい3楽章を予感させる清楚な2楽章のエンディングへいざなうのである。

僕はこの5番2楽章こそが、静と動、優しさと激しさ、美と醜、秩序と破壊、そしてエロスとタナトスが混在する、生きとし生けるものの性エネルギー集大成に思えた。

ヘイジュード
次に衝撃的な音楽の出会いをしたのは小学校の高学年の頃だった。
年の離れた高校生のいとことテレビを見ていたら、なんとも美しいストリングスの旋律が流れてきた。森光子主演のドラマ「おふくろの味」のテーマ曲である。
「これ何ていう曲?」とっさに僕はいとこにたずねた。いとこは高校でブラスバンドの部長をつとめる音楽好きだった。
「ヘイジュード」と、いとこは奇妙な曲名を答えた。(そのヘイジュードはポールモーリアというオヤジが自分の楽団に編曲して演奏させたものだということが後になってわかった。)
「誰の?」と僕。
「ジョンレノン」(ほんとは作曲はポール、ジョンは作詞)
「それって誰?」
「ビートルズ」
「………。」

このときの衝撃は今でも忘れない。
そのころビートルズはすでに解散していたけど、僕の意識ではビートルズと言えば、バカになる感染力が最も強い音楽のはずだった。なにしろ幼稚園のころに「ひょっこりきょうたん島」でバカになることを洗脳されたまま育った少年である。ビートルズなんぞはとんでもない大バカ者である。
ビートルズとやらに毒されて髪を伸ばして奇声を発するバカ男やら、それをキャーキャーと叫ぶ大バカ女達を冷ややかな目で見てきた少年である。
なんで、そんなバカ者の頂点に立つビートルズが、こんな美しい曲を作るのだ!僕はほんとうに信じられなかった。

それから間もなく、僕は見事にバカ者の頂点ビートルズにハマった。
その後、僕はバカなビートルズと、りこうなクラシックを同時に愛せる少年となった。
さらにバカとりこうを掛け合わせるポールモーリアのような「編曲家」なるものにも大いに関心を抱くようになる。
この音楽の好みは今も変わらない。(成長しない)
そしてこのアグレッシブだった音楽生活も小学生で一旦終わりを告げる。

FMfan
小学校のころはブラスバンドに入れさせられ、いろんな楽器を吹かされたけど、中学校は音楽には力を入れておらず、部活動に音楽っぽいものは一切無かった。しかも中学になって幼稚園から続いてたピアノのレッスンも辞めた。(やっと親が辞めさせてくれた)
そんなわけで、中学から僕は楽器に触れる機会が激減し、音楽からだいぶ遠のいた。
でも寂しい気持ちはちっともなかった。そのかわり、音楽を聴くことに意欲を燃やし始めた。FMfanで好きな音楽をチェックし、カセットに録音して繰り返し聞くのが僕の日課となった。ビートルズのおかげでストライクゾーンがかなり広がったため、そのころのテープにはバッハとディープパープルが同居していた。
音楽ばかり聴いてるので親からはずいぶん叱られたが、また隠れてひっそり聴くのも怪しくて楽しかった。

高校になってもこのリスナー生活は変わらなかったが、丸刈りから解放されて、憧れ?のビートルズヘアー(思いっきり時代遅れ)を決め込み、だけど思いっきり硬派をきどってケンカをふっかけて歩き、ちっとも勉強することはなかった。しかし3年ともなると進学のことで家族がうるさく言い始めるようになる。
そのころ姉は上京して美大生だったし、親父も絵描きだったことから「お前も美大だったら入れるんじゃないか?」と安易に勧められた。僕もその気になってデッサンを始めたが、親父は絵を描きながらの音楽鑑賞は容認してくれたので楽しくデッサンは続けた。
デッサンの腕は上がったものの、頭がついてこれなかったようで、美大には落ち、僕は上京して浪人生活へと移ることになった。

多重録音
田舎者が都会へ行くと見るもの聞くものすべてが新鮮である。勉強やデッサンどころではなかった。しかも、うるさい親がいないぶんFMは聞き放題である。

そもそもFMのヘビーリスナーになった中学のころから僕はオーディオに(←ここの文法が間違ってたようです。教えてくれた方ありがとう)興味を持ち始めていた。そんなふうにメカに興味が及ぶと、一人で音を重ねて音楽を作る(多重録音)ことにも大いに興味が及んでくる。
しかし今のように一般にMTR(マルチトラックレコーダー)は普及しておらず、あったとしてもプロ機種でしかも、たった4チャンネルが何十万という世界なので、とりあえずは夢ということにしてあった。

ところが予備校の友人がマイクミキシング機能付きのカセットデッキを持ってることがわかった。僕がうらやましがると、彼はそのデッキをあっさりと僕に貸してくれた。
これが次なる衝撃的出会いだった。早速僕はそのデッキをアパートに持ち込み録音を始めた。まずギターの弾き語りを録音したら、そのテープを自分のデッキで再生し、それを借りたデッキで録音しながらミキシング機能を使って、歌をハモったり、ギターソロを入れたりして遊んだ。(いわゆるピンポン録音)
そのうちギターや歌だけではつまらなくなり、てごろなハーモニカやリコーダーを買ってきて音を加えた。それでも物足りなくなり、おもちゃのピアノまで買ってきては録音に励んだ。

そんなふうに予備校にも行かず録音で遊んでいるうち、また受験シーズンがやってきた。当然また落ちた。
美大受験は3浪4浪はざらだが、僕はここであっさり美大受験をあきらめた。浪人中にハマってしまった多重録音をより楽しむためである。
僕は親の猛烈な反対を押し切り、レコーディング技術が学べる専門学校を見つけ入学してしまった。

実際通ってみると授業は実につまらなかった。しかし実習と称して行うグループ単位の録音や番組作りは燃えた。僕は実習では必ずディレクターという役を勝ち取り、率先して作品作りにあたった。自主制作でラジオドラマや8ミリ映画にも挑戦した。脚本も自分で書いた。そして作品作りのおもしろさを初めて味わった。
そんな学生生活の中、また新たなる衝撃的出会いを経験する。

D-800
次なる出会いは、ヤマハのエレクトーンD-800である。
そのころの友人(その友人とはこいつである。)の住むアパートの最寄り駅近くに大きなヤマハ特約店があった。ある日その友人宅に向かう途中、その特約店の前で「レモン1個キャンペーン」なるものをやっていた。新機種のエレクトーンを試奏するとレモンを1個くれるというものだ。約束の時間にちょっと早かったこともあって、ふらりと寄ってしまった。
そしてこれが衝撃的かつ運命的出会いとなる。

そのヤマハの新機種D-800なるエレクトーンは、多重録音好きの僕の音楽観を一新したと言っても過言ではない。
まずはリアルで豊富な音色にびっくりして、次にリズムやコードやベースなどのシーケンス機能に我が耳を疑った。「こんなものがこの世に存在するのに、何でオレは今までピンポンの多重録音なんぞをチマチマやってたんだろう・・・」と後悔しながらD-800を弾きまくっていたのを憶えている。

ふと気づくと僕の後ろには店員や客が大勢集まって僕の演奏に聞き入っていた。
急に恥ずかしくなってそそくさと帰ろうとすると案の定、数人の女性店員に呼び止められていろいろと事情聴取された。
僕がエレクトーンを初めて弾いたことを知ると、みんな僕の弾きっぷりに感心したようで口々褒めちぎられた。僕は褒められると図に乗るタイプである。まずは「あなたなら教室に通えばすぐに講師の資格取れるわ!」の言葉に乗せられ、早速翌週からエレクトーン教室に通い始めたのだった。
さらに親にうまいこと言って頼み込んで、エレクトーンを買ってもらい(D-800が欲しかったのだが、さすがに高すぎるので、弟分のC-200で我慢した)アパートの六畳間でヘッドホンを付けて昼夜問わず弾きまくった。

就職活動

弾きまくった甲斐あってか、3ヶ月でエレクトーン講師免許なるものを所得した。
折しも就職活動の時期だった。仲間たちは就職活動に奔走していたが、僕はとっくにいわゆる業界への就職は諦めていた。入学のころは音楽や映像制作の仕事就いてみたいと思ったけど、業界の就職はかなりの難関で「・・・もし就職できたとしても、アシスタントエンジニアや、フロアディレクターという鬼畜以下の扱いを薄給で耐え忍び、それを耐え抜いた一握りの人間のみが・・・云々」という話を講師陣から散々聞かされていた。

僕には全くその根性が無いのはわかっていた。
そこでそのころ講師達からの評価が高く、仲間からも評判の良かった台本や脚本を書くことを仕事にしようと考えていた。
・・・卒業したらこのまま東京でバイトでもして、エレクトーンで音楽作りながら、脚本書いて、フリーの脚本家になって、うまいこと業界に潜り込んで、いつのまにか音楽や映像のディレクターになって・・・
そんなわけで、就職活動を全くしなかった僕は、自慢のエレクトーンで他のクラスの卒業制作の番組や舞台のBGMをこしらえたり、自主映画やラジオドラマの制作で大忙しだったし、皆からも信頼され期待され、大いに充実した日々を送った。今振り返っても自分が一番輝いてたんじゃないかと思える。

しかし輝く時期はそう長くは続かない、卒業が迫ってきた。仲間ともお別れである。仕方ないので当初の計画通り、脚本家を目指す生活を支えるためのバイトを探すことにした。
ちょうど学校の求人欄に、僕のアパートの近所のオーディオ機器の修理会社の社員募集が載っていた。バイトの方が良かったんだけど、アパートから歩いて通える距離だったので(アパートは大森北、会社は平和島)あっさりと入社してしまった。

というわけで、僕は社会人1年目を学生時代と同じアパートから始めることになった。
バイト感覚だったので、特に気負いも無く無難に仕事を続けていたのだが、突然2週間めでその仕事が嫌になった。一旦嫌になると嫌度は日増しにますばかりで、その会社はおろか、その通勤路や住んでるアパートや東京までもが嫌になり、生涯始まって以来の落ち込みを経験して、ひと月にも満たないうちに会社を辞めた。

キクヤ楽器店

しかし辞めたからといってその落ち込みから解放されるわけでもなく、アパートで一人悶々としていた。そのときの心理状態を今でもうまく説明できないけど、5月病のようなものだったのだろうか?とにかく何もかも嫌になっていた。
そんな中で僕の出した結論は「きっとオレは東京というところが合わないんだ。田舎へ帰ろう!」
そしてこの結論こそが、柳沼と出会い、クレヨン社結成の第1歩となる。

田舎へ帰るのはいいけど、仕事は何をしよう・・・と考えたとき思いついたのが、僕の唯一の資格であるエレクトーン講師免許だった。
いろいろと思い悩んだあげく、僕は地元いわきで1番の楽器店キクヤ楽器店に電話をしてみることにした。電話の感触は良く「とにかく一度会いたい」とのことで、一時帰省して面接を受けに行った。
社長の話はこうだった。「男で講師免許を持ってる人は珍しいので、ぜひ君には講師ではなく社員として、若い女性講師たちと交流を深めながらのまとめやくと、音楽教室の運営を任せたい」との話だった。
そしてそのときたまたま居合わせて紹介してくれたエレクトーンとバイオリンの講師はえらくきれいな女性だった。僕はその場で就職を決めた。以下夜明け前へと続く・・・。

現在も当時のまま健在なキクヤ楽器店。2005年4月に撮影。
撮影のいきさつは、こちらの2005年4月・増刊のあいさつを参照。
この店の2階で加藤と柳沼は運命の出会いを果たす。




<戻る